南国土佐は怪獣だらけ(フランケンシュタイン編)

-新作「GODZILLA」ついに今週末公開スタート!


IMG_0156.jpgこの連休中は一泊二日で高知へ行ってきた。6/27のエントリーで書いた高知県立美術館(左写真の建物)の企画上映「夏の定期上映会/怪獣映画特集」を見てきたのである。

しんどいだろうが場合によっては単独で日帰り鑑賞しても良いなと思っていたのだけど、幸いなことに同行してくれる人が数名いたので、じゃあいっそ泊まりにして怪獣を肴(?)に高知の夜で一杯やろうかということになり20日に「バラゴン」「サンダ」21日に「バラン」「ラドン」と分散して鑑賞することに成功。

日帰りだと徳島を朝7時前後には出発しないと上映開始(10時)に間に合わなかっただろうし、そこから一気に4本も見たら終わる頃にはフラフラになっていたことだろう(~Q~;)(たぶん京都のオールナイト参戦以上にキツかったはず)結果的に二日には分けたのは肉体疲労を考えるとちょうど良かった。

そんなわけで感想が長くなると思うので(__;)なるべく分割して書くようにするが、まずは初日の話である。

7/20(日) 14:00~「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」


ここの美術館は今まで何度か来たことがあるがホールへの入場は初めてだった。どんな感じかと思っていたけど収容人員は約300人程度で席はゆったりと余裕を持って設置されている。映画だけでは無く舞台の上演等も同ホールで開催されることがあるせいかスクリーン前の演壇は面積も広く、奥行きもあるため最前列に座っても窮屈さがあまりない。

そのうえそのスクリーンサイズがそうとうな大きさで、地元のシネコンや京都みなみ会館等と比べても圧倒的な大画面を誇っていたのにはたいへん驚いた。今回は両日とも35ミリの映写機によるフィルムでの上映ではあったけど、プリントの状態は「バラン」以外はとてもキレイなもので画面に映る傷も東宝マークからオープニング、そしてラスト近く意外は目立って気になる箇所はなかった。音響だけは少し余分なディレイでもかかっていたのか、若干台詞が聞き取りにくいところはあったけれども鑑賞環境としては申し分のないものだったと思っている。そして来場者はぱっとみ100人前後と、予想よりはたくさんの方が来ていたようだ(一目で「スキモノ」とわかる方々も何人かおられたなあ(ーー;)←向こうの人もこっち見てそう思ったでしょうが(^_^;))
IMG_0149.jpg  IMG_0150.jpg

この日は午後からの参戦だったので一発目は「バラゴン」から。半年くらい前にBS日専CHでオンエアされているのを見ているが、この超・大画面で見るのとそれはまったくワケが違うのだ(毎度のことながら没頭度がとんでもなくあるわけで、その集中力はテレビ鑑賞時の比では無い)

終戦間際に不死身の生命体の素とされるフランケンシュタイン(本作、そして次の「サンダ対ガイラ」ではメアリー・シェリーの原作とは遊離した怪物的イメージの象徴としてこの言葉が使用されている)の心臓がドイツから広島へ運ばれ、原爆投下とともにその存在が不明となりそのまま現代(劇中では昭和35年~40年)に話が繋がっていくというのはその後の無茶な話を「然もありなん」と思わせる映画的説得力の種まきとなっていて、フリとしては実に巧妙だったと思うのである。

この怪奇ムード満点の序盤から謎の浮浪児が発見され彼の正体がどうやらその心臓から生まれた特殊な生き物であるという結論になり、半ば実験材料として収監されるあたりには彼に対する同情心がこちらにも芽生えてくるのだった(彼の世話をして常に擁護しつづけた季子(水野久美)と同じ目線に立ってる感覚)

その後明らかな人為的ミスによりフランケンシュタインに逃げられてしまい、中盤からはけっこう脈絡無く(^_^;)出現した地底怪獣と彼が対決するという、いつもの東宝怪獣映画へと話は流れていく。そしてこれ以降ドラマとしては平板な展開に終始してかなり退屈なものになってしまうのだがそこが勿体ないというか何というか。

人ではない「悪意のない怪物」として誕生し貴重な研究対象として囲われているウチは大事にされていたのに、手に負えなくなると「抹殺してしまえ」となるのは最早人間側のエゴでしか無く、それに対し主演の科学者役である三人が三者三様の考えを持っていて画一的ではないのが映画として旨く機能していたと思うのだが(「ヤツを殺してその指一本でもあれば研究に事足りる」というリアリストの川地(高島忠夫)、恋人でもある季子に同調してフランケンシュタインを守ろうとしたのに結局最後は「死んだ方が良い、彼は所詮怪物だ」と言い放つボーエン博士(ニック・アダムス)等々←どこかで季子とフランケンシュタインに対する嫉妬のようなモノもあったのでは思わせるところがないわけでも無いかなと)それが中盤以降とても薄味になってしまったように感じるのである。

見ていて思ったのはタイトルがこれだから仕方ないとは言うものの、実はこの映画ってバラゴンが出ない方がもっと深くて良い作品になったんじゃないのかなと。それは監督である本多猪四郎も自著(※1)の中で「話が二つに分裂して安直になっちゃったからね」と残念がっておられたが、これをもしかつての変形人間シリーズの枠でフランケンシュタインの物語として単独で作られていたなら、或いはとんでもない傑作が世に出ていた可能性もあったのかもしれない。そういう意味ではホントに惜しい題材だったなとも思えたのだった。

ただこれはあくまでも単体の"映画"として見たときの感想であって"特撮怪獣映画"として見た場合また話は違ってくるのである(どちらを主にして論じるかというのはこのジャンルだと難しいのだが「ゴジラ(54)」のようにそれ(本編+特撮)がバランス良く成り立つケースは実はそんにないのだよ)本作を特撮面だけで捉えたならばバラゴン(上じゃ↑「いない方が良い」とは書いたけど(^_^;)怪獣としての魅力は十二分にあるのだ)とフランケンシュタインのサイズ設定を20メートルに止めたことにより通常の怪獣映画より縮尺の大きい精巧なミニチュアを作らねばならず、そのせいで不思議なリアリティを生んでいてたことがまず新鮮だったこと。さらに怪獣同士の格闘がプロレスで喩えるとゴジラ・モスラがヘビー級であったのに対しこちらはジュニアヘビー級の動きであったこと、これは双方の動きに相当なスピード感があったと言うことでもある。この点については映像面でかなりのインパクトがあったと思っている。

結局そういう別々の魅力が個々に存在し、それらが最後まで噛み合うことなく終わってしまった映画だったのかなというのがこの日の大枠での感想だけど、とてつもなく印象的な異色作だったというのも間違いのないところ。

あと蛇足ながら最後に大ダコが現れ、そこでこのフィルムが海外版であることを理解したが初見と思しき隣席の方がぽつりと「え?(@_@;)ここでこのタイミングでタコ出るの??」と呟いておられたのは可笑しかった(^_^;)真っ当な一般層の方であれば唐突感は凄くあっただろうなと思ったなあ・・・

と、「フラバラ」だけでこんなに長くなると思ってなかったので( ̄。 ̄;)いったん終了。次以降はもう少し短く纏めよう。

(※1・・・本多猪四郎 著「ゴジラとわが映画人生」より)
関連記事

0 Comments

Leave a comment