嗚呼大猿純情絵巻

2006年一発目の劇場参戦は「キングコング」

タイトルクレジットがRKO版世界名作映画全集 6 キングコング ◆20%OFF!のまんまで細かいリスペクトを感じる出だし(この手は劇中にぽつぽつあって好感持てた←フェイ・レイの名前の使い方とか)

なにせ3時間半(!)あると聞いていたので、島から帰ってくるだけで2時間は費やすだろうというこちらの予想は正解だった(島での描写は気色の悪さを5倍くらいにした「ジュラシック・パーク」みたいだった・・・)

出だしからオチまで映画ファンなら誰しもが知っているこの話を、そんな長尺で大丈夫なのか?という心配はあったけれども、それは杞憂に終わったと言って良い。少なくともワシの中ではそんなものどこにもなかった。

ハッキリ書くけど、これはとってもイイ映画だったスよ!(T^T)

特撮がスゴイのは当たり前としても(これだけでも書けることはアホほどあるが、この辺は割愛する。凄さは見たらわかるし(^_^;))今回改めて思ったことは・・・この映画は男の純情が肥大化して愚見化した存在としてのコングを描いていると(少なくともワシはそう思った)

自分もそうだったけど、得てして女慣れしていないオトコというのは恋愛対象へのアプローチをあきらかに間違っている場合が多い。ちょっと微笑みかけてくれた程度で「俺たちは結ばれる運命なのだ」などと自分の中の思い入れが先行し、勝手に戯けたことをいとも簡単に考えてみたり。そして彼女の心が実は自分に向いていないとわかると逆ギレしては周りにひたすら迷惑をかけるという流れへ一直線(行き過ぎるとストーカーの道まっしぐらというヤツだ)

この映画の場合一見すると「美女と野獣」の気持ちが通じたようにも見えるけれども、これは断じて「愛しみ」ではなく、ヒロインからコングへ流れている気持ちというのは「哀れみ(或いは同情)」若しくは「南の島であった一夏の情事」への郷愁でしかないのである。それを考えると「キング・コング」という作品が80年近く(主にオタク系純情少年に)なぜ愛され続けてきたのかが見て取れるような気がする。

コングに言葉が使えればきっとこう言ったことだろう。

俺に笑ってくれたじゃないか!
俺と一緒に美しい夕陽を見て感動したじゃないか!(;>_<;)ビェェン

そして至極真っ当な大人の女性であるアンはこう答えるのだ。

「そんなもんリゾート先のLoveAffairっちゅーヤツですがな(-.-;)y-゜゜と」

女性にとって男性の「純情」など、全く以て問題になどされない。どんな熱い気持ちをぶつけてこられても、好きではない男性からのアプローチは迷惑以外の何者でもないと言うことだ。それを大人になってから自覚したときのショックというか悲しみみたいなものがコングの最後に投影されているのではないのかと(ピーター・ジャクソンに聞いたら「そんなアホな!」と言われるかもしれないけど。ワシは本気でそう思ってしまったのだ)

ラストシーンであれほどコングを庇ったナオミ・ワッツエイドリアン・ブロディの顔を見た瞬間、今までのことなど無かったかのように彼の胸に抱かれるシーンを見たとき、あーなんてオトコの純情とは切なくも悲しい物かと!ワシはマジで涙腺が緩みそうになってしまったよ(;>_<;)(もう完全にコング目線で映画見とる(__;))

そう、「キング・コング」とは結実しない一方的な純情男の愛。それを描いた悲しいオトコの映画だったのだ・・・




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